こんにちは、まのです。
今回のコラムでは、先日僕が受講した研修会の中で出たお話しの中から印象的だったことを掘り下げてみたいと思います。
研修に関しては有料のものですので、詳しい具体的な内容は伏せさせて頂きます。
大まかにいえば、心理支援においても様々なスタイルや技法・情報が乱立している現代で、心理職が忘れてはいけない根っこの部分を考えるというテーマのものでした。
僕としてはとても勇気づけられるお話や考えさせられるものが多く、詳しくは↓で触れていきますがとても得るものが多い機会でした。
「まるでエビデンスに殴られているような気がする」
いきなり何事だという感じの文章ですが、この研修会の中で印象に残ったフレーズの1つです。
というのもこの会では歴代の様々な臨床家、作家、研究家などの言葉も添えながら話して下さっており、各話題がインパクト盛り盛りで提示されていく流れでした。
おかげで少しとっつきにくいような話題もイメージがしやすくありがたかったというわけです。
そしてその中で出たのが見出しの「まるでエビデンスに殴られているような気がする」というフレーズです。
誰の言葉だったか…出典は可能な限りメモしていたのですがこれは間に合わず、申し訳ないことにどなたの言葉か分からないのですが( ;∀;)
これは現代医学の、エビデンス第一主義の現状を嘆いた言葉となっています。
当然、医学の発展や安全性の確保のためには根拠(エビデンス)が重要であることは医療従事者であれば誰もが知っていることです(知っていながらエビデンスを軽視する医療者もいなくはないですが)。
ではエビデンスが重要である前提のうえで、どうして「エビデンスに殴られる」という否定的な文言が出てきたのでしょうか。
ここで嘆き提唱されているのは、エビデンスを重視するがあまり個別的な対応が軽視されているのでは?という危惧です。
確かにエビデンスというのは、大量のデータをもとに統計的に処理をされ「この症状にはこの治療が良いらしい」と積み上げられてきたものですので信頼性はあります。
ですが一方で、どんな治療であっても100%というものはありません。100%の治療成果も、100%副作用が起きないといったこともありません。
必ずあらゆる状況には例外というものが存在するわけです。
自閉スペクトラム症には〇〇という方法が良い、というエビデンスが確立されたとしても全ての自閉スペクトラム症の方に〇〇を提供すれば良い、とはならないんですよね。
ある意味、AIの実用化が進むこれからにおいて、医療従事者の腕前というのはこの例外にいかに対応できるかが重要なのではないか? と個人的には思ったりもしています。
行き過ぎた科学信仰が「個別性」を奪うリスク
心理支援においては、相談者の方一人ひとりに合わせた柔軟な対応が必要不可欠です。
しかし現時点においては、少しエビデンスの外の治療を行うと批判的な見方をされることがあります。
心理学的アプローチにおいては特に相談者の方に合わせた柔軟な対応が必要であるはずなのに、形式的な関わりだけが正解かのように扱われてしまう。
こうした状況を「エビデンスに殴られる」「行き過ぎた科学信仰」といった言葉で嘆き、これは1人1人の個別性を無力化しているのではないか。
そういった問題提起のお話しです。
これに続く講師の方の見解や、カウンセラーがもっておくべき意識についてのお話しも大変勉強になりました。これ以上書いてしまうと研修会の肝の部分の話になってしまうのでこの辺で止めさせてください。
僕自身、エビデンスは重要である前提のもと、固執しすぎているつもりもなかったのですが…。
なんというか実績のある講師の方がこうも大っぴらに疑問を呈して下さると、
「たしかにエビデンスにとらわれすぎて、相手の方のことが見えなくなったら本末転倒だよなあ」と改めて考えることができました。
もちろんエビデンスから離れすぎてもいけませんので、この辺はバランス感覚が大切なところでもあると思います。
アマチュアほど自分のもっている知識に頼ろうとし、専門家ほどそれを捨て去ることに尽力する
この見出しも、研修会の中で紹介されていた言葉です。これは僕はめちゃくちゃ共感しましたし、とても勇気づけられました。
ちなみにどなたの言葉かは…これはメモしてあるんですが走り書きで確証がなく💦
曖昧なことを載せてもよくないので、伏せさせてくださいm(__)m
さてこの言葉、僕はずっと引っかかっていたというかモヤモヤしていたものを言葉にしてもらえた気がして共感の嵐でした。「これでいいんだな」と思えたというか。
恐らくこうして研修会の中で紹介されるぐらいですので、僕以外にも同様のモヤモヤや疑問をもっている心理職の人が多いのだろうと思います。
この言葉の示す意味はというと、僕自身もそうでしたが未熟であるほど、学んだことによって「分かった気になってしまう」という落とし穴への警鐘だと思うのです。
医療従事者になるために専門的知識を学び、その知識と臨床現場での体験が結びついていく。この過程は大切でワクワクもするし、1年2年と経験を積む中で自分の治療者としての力が付いていることも実感していく。
これはこれで大切なのですが、同時に経験するのは「教科書通りにはいかない」「自分の技量や知識だけではどうにもできない」といった場面たちです。
そもそも人というのは言うまでもなく奥が深く、医学という視点からも分かっていないことがまだまだ山ほどあります。もしかしたら今常識とされているものも、何年かしたら様変わりしているかもしれません。
謙虚さを忘れた支援は、相談者の不利益になる
こうしたときに自分の知識に固執すること、先入観に捉われることが患者さんや相談者さんにとって不利益になるリスクがある。ということを治療者側はよく頭に入れておかないといけないと思うのです。
カンタンに言えば謙虚であれ、というところでしょうか。
自分の専門領域で分からないことがあれば、その道に精通した方に尋ねるというのも大切でしょうし。
自分が分かっていると思っていたことを疑う、ということもときには大切だと思います。
僕も総合病院に勤めていたので多くのお医者さんと仕事をさせて頂きましたが、信頼できるお医者さんほど他の医師に質問したり連携を依頼することを厭いません。あるいは医師だけでなく、僕らコメディカルスタッフと呼ばれる各職種にもガンガン尋ねられます。
良い意味で、自分を過信していないんです。
意地やプライドで自分よがりになっていたら…被害を受けるのは患者さんですからね。
分からないからこそ、懸命に分かろうとする姿勢
僕自身の話に立ち返りますと、日々相談を受ける立場としてはどうしても葛藤があります。
分からないことがあると凹んだり、ちょっとバランスを間違うと「もっと勉強しなくては…」と強迫的になりかけたり。
ですがそもそもの話、全て分かるはずはありません。
開き直りではなく…現代の科学で解明されていないことも多いうえ、人1人のキャパシティからしてもそりゃそうだという話で。
全て分かるはずがないのは知識もそうですし、相談者さんの考えについてもそうです。
カウンセラーだからといって、全て相談者さんが考えていることが分かる、という思い込みはとても危険だと思います。人の心ですから…分からないことがあって当たり前のはずです。
それでも分からないなりに一生懸命想像し、分かろうとする。話に耳を懸命に傾ける。
それが初歩にして最も大切なことではないかなと。
分からないからこそ分かろうと努力し、勉強もし続ける。簡単なようで忘れがちな、大切なことを思い起こさせてくれる機会でした。
次回予告:カウンセリングとAIについて
今回のお話しはここまでです。
次回ですが、この話題から関連してカウンセリングとAIというテーマについて書いてみようかなと思っています。
これは個人的に以前から考えていることではあるんですよね…だって独立してカウンセリングサイトを立てたのに「AIに仕事を奪われた」となってしまっては僕はご飯を食べていけません(^_^;)
もちろん世間的には良いことだと思いますが、自分の生活がかかっている以上、僕個人には脅威となりうる存在でもあるわけです。
ですので独立をしようとした際、今後AIはカウンセラーに成り代わる可能性があるか?と自分なりに考え、「僕が現役のうちは成り代わらないだろう」という予想に至ったという経緯があります。
次回はその辺りについて、今回触れたエビデンスの話題とも合わせて考えていきたいと思います。
この記事を書いた人:まの (まのぱぺ相談室代表)
【保有資格】
言語聴覚士 (国家資格) / 公認心理師 (国家資格) / 正規Keep Safeインストラクター修了
【主な経歴・実績 (臨床経験10年以上)】
- 元・看護専門学校 非常勤講師(リハビリ概論/言語・高次脳機能障害などを担当)
- 急性期病院での小児~成人リハ (失語症、嚥下、高次脳機能障害)
- 1歳~18歳までの支援 (発達障害、ことばの遅れ、吃音、緘黙、学習障害など)
- 重症心身障害児・者リハビリテーション
- 保育園へ毎月訪問し、保育士さんとの意見交換業務を継続中
- 学会での発表実績あり (令和8年も発表に向けて準備中!)
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